フェイスブックの心理学 【3.コミュニケーションの変容】

シリーズでお伝えしてきている 「フェイスブックの心理学」 において、「コミュニケーションの変容」 を考えることは最も難産でした。

ソーシャルメディアによりコミュニケーションが変貌したことに異論はないでしょう。 しかしその実態には諸説混合です。

そもそもコミュニケーションとは、

「社会生活を営む人間の間で行われる知覚、感情、思考の伝達」

などと定義されています。

伝達において、非言語的な文脈である 「コンテクスト」 と言語的な約束である 「コード」 が交換、解釈されます。 伝えるための媒体としては、言葉、表情、ジェスチャー、動物では鳴き声、分泌物質などが加わります。 言語は人間特有のコミュニケーション媒体です。 情報の伝達により、共感、理解、愛情などのさらに複雑な変化が引き起こされます。 それらを総じてコミュニケーションと呼びます。

ソーシャルメディアが拡大した理由として、東京大学橋元良明教授は、コストの安さ、便利さに加え、広範囲に同期送信が可能であること、自己情報の発信による高揚・開放感、そしてリアルな反応を挙げているそうです。 簡易にできる広範なコミュニケーションにより、自分の存在を実感できることが大きな魅力であると言われています。

エコーチェンバー現象と呼ばれる、自分の考えに同調する集団を形成し情報を共有することができるというコミュニケーションの効果もみられます。 一方で、不特定多数にリアリティーなく発信できることが、注目を狙った発言、プライバシーの過剰開示などを誘発しやすいことも言われています。

ソーシャルメディアのコミュニケーションは、その便利さとパワフルさ、そして拡大性で優れている反面、意見が偏りやすい、極端になりやすいという傾向が言われているわけです。 (参照

明らかに、伝える人 (人々) を前にしたコミュニケーションとは違ったダイナミクスが起きているわけです。 特に若年世代において、このソーシャルメディアがコミュニケーション全体に大きな割合を占めるようになってきています。

では、単なる記号としての情報の交換のみではなく、コミュニケーションの重要な要素である感情の交流、共感などはどのように影響を受けているのでしょうか。 とくにその点に焦点を当ててみましょう。

第15回で取り上げた Sherry Turkle: Alone Together: Why we expect more from technology and less from each other. Basic Booksでは、この点について実例を挙げながら詳細に検討されています。 フェイスブックに限らず、ソーシャルメディア一般について考えてみて下さい。

16歳の女性は 「インターネット上のけんか」 について語っています。 チャットルームで、ある男の子と果てしないけんかのやりとりが始まります。 いつしか2人を知る友人達もどちらのサイドにつくか、巻き込まれていきます。 この女性は、インターネット上のけんかは「ほとんどとるに足らないやりとりだ」と振り返ります。 直接顔をあわせたけんかであれば、ものの5分で終わっただろうと。 「オンライン上での謝罪は軽い。 簡単すぎる。 『ごめんね』 とタイプするだけ。 そこに感情は存在しなくてもよく、親身な声も必要ない。

 

それに対して実際に相手に会って謝るのはよっぽど労力を要するし、その分本当に心に届く」。 相手の男の子は彼女に謝るのですが、それはオンライン上ででした。 そこで彼女にとって疑問として残るのは、「彼は今になって奇妙な行動をとろうとしているの?私たちは本当に普通に戻ることができるの?」。 「ごめんね」 という書き込みは本来の感情を伝えません。

別の例では、恋人と別れる状況が取り上げられています。 彼女はインターネット上で別れを切り出すのがベストではないのはわかっています。 しかし、電話で伝えたり、会って伝えることははばかられます。 そうやってつらい感情のやりとりを避けながら、情報 ( 「別れたい」 ) のみを伝える。 それがソーシャルメディアによるコミュニケーションでは可能です。

 

Emailの時代から同要素はありますが、ソーシャルメディアの時代ではさらに、 彼らの人間関係は現実とバーチャルが混在しており、複数の世界に跨いで関係を処理しなくてはならないのです。 そのとき感情は意図的に、あるいは無意識に置き去りにされがちです。

Emailの前は確かに電話や手紙が主な遠距離コミュニケーション手段でした。 ソーシャルメディアに近い、言語の記述によるコミュニケーションであったのは手紙ですが、むしろそれは感情を含蓄するのに適した部分があったかもしれません。 時間をかけて練った文面が時間と労力をかけて届けられる。 そこには対面で話すよりむしろ深い感情が伝達しえたでしょう。

 

また面と向かっては言えない部分が込められることもしかりでした。 おそらく同じ文字という伝達であっても、簡易に短時間で手短に行われるソーシャルメディアの 「軽さ」 が、コミュニケーションの大事な要素である感情の交流を阻んでいるのでしょうか。

一方でソーシャルメディア世代では、テキストを打つことで 「感情」 を形成していく面があるようです。 彼らの伝達では考えの交流よりも、むしろ内容を含まない「フィーリング」 の交換が主になることがあります。 こういったティーンエイジャーにとっては、感情を伝えるのにテキストを打つのではなく、テキストを打つことにより自分の感情に気づき、コミュニケーション自体が感情を生み出す場所になっているというのです。 感情、思考があるからそれを伝えるというかつてのコミュニケーションとは逆のことが起こっているのです。

対面のコミュニケーションにおいては、沈黙があります。 ソーシャルメディアの世界では、沈黙、つまり返答がないことは発信者にとっては恐れるべきことです。 それにより傷つくこともおきます。 ですから、発信する際にはそれ相応のプレッシャーが伴います。

 

ひょっとしたら返答がなくてもよいようなソーシャルメディアを選択するかもしれません。 インスタント・メッセージなどは、より返答の期待値が低いので 「場」 の感触を得るのにより好まれるかもしれません。

かくしてコミュニケーションの手段は送り手によって選択され、自分にとってより好ましいコミュニケーション (その質、寛容さ、侵襲性など) の世界へ潜んでいくことが可能なのです。 コミュニケーション形態の多様性は、より幅広く人々にコミュニケーションの術を与えるとともに、従来のコミュニケーションでは必須であった要素が失われたり、あるいは新たな要素が加わったり変容が進んでいるのです。

かつては 「ひきこもり」 というと、部屋にこもって外との 「コミュニケーション」 を遮断することでした。 昨今は、インターネットではコミュニケーションを維持している 「新型ひきこもり」 がみられます。 ある事情で一般のコミュニケーションが不可能な場合、その他の多様なコミュニケーション法があるのは朗報なのかもしれません。

それとも逆だと思いますか? この多様性の流れに、「もっと本来のコミュニケーション (人対人の対面) を維持すべきだ」 という意見は多いと思います。 対人コミュニケーション能力の欠如が会社などの社会で問題になる、あるいは反社会的な人間がはびこるなどの懸念が言われています。 ただ近未来の社会で、どのようなコミュニケーションが社会標準になっているかは、そういうわけで一概には言えないのです。 Emailでの社内コミュニケーションが一昔前からは想像できないくらい行われているのもその例です。

ところで、誰かと食事をともにすることで、その人と思いのほか近づきになれたことはありませんか?

食事という人間の基本行為を共有することでおきる交流は、双方の距離を思いのほか近づけます。 お茶を振る舞う、食事に招く。 人間は様々な形でコミュニケーションを工夫、洗練してきました。 「心づくし」 というのも高級なコミュニケーションですね。 人間は、言葉だけでなく、顔があります。 手があります。 表情があります。 場の空気があります。 そして気持ちがあります。

 

最初に挙げたコミュニケーションの本来の定義からするとこれら五感を駆使した交流がコミュニケーションです。 ひょっとするとインターネットの 「いいね」 だけがコミュニケーションの主体になる将来があるいはあるかもしれません。 だとすると、顔や表情やジェスチャーは必要なくなりますね。 それらが退化して、果ては目と脳とクリック用の指だけが発達した生物が将来の人類なのでしょうか。 可能性はありますが、遺伝子の淘汰の時間を考えると、もう数万年はおきないでしょう。

皆さん、人類の宝である五感を駆使した感情豊かなコミュニケーションはしばらく必要でしょう。 ソーシャルメディアの逆襲を受けて、特異なコミュニケーションの世界へ入り込むのは、ちょっとご用心下さい。