自然と脳
2015年の12月、ある著名なアメリカ人が、南米の僻地で死を遂げます。アウトドア製品で知られる「ノース・フェイス」を創設したDouglas Tompkinsです。彼は40代までに、ノースフェイス、そしてアパレルの「ESPRIT」を成功させ、巨額の富を得ます。しかし程なく、消費文明に嫌気がさします。
すべてを売り去り、南米パタゴニアへと移住するのです。同じくアウトドア製品で有名な「パタゴニア」のCEOを長年務めたKrisとともに、電話もないような生活の始まりでした。今から30年ぐらい前の話です。その後の彼らの行動は、周囲の度肝を抜きます。
広大な土地を購入し始めたのです。しかも大きなものはヨセミテ公園(アメリカの国立公園で、東京都の約2倍)サイズで、全部で200万エーカーを超える広さに及んだのですから。現地の人々からは、「チリを二つに分断するのか」「ユダヤ人の国家を作るのか」「核燃料の廃棄場にするのか」「アメリカバイソンを移殖するのか」などと噂、非難されました。
しかし、彼らの本意は違いました。美しい自然が破壊されるのを避けるために、土地の購入後、整備した上で国に寄付し、国立公園として自然を保とうとしたのです。誰も思いつかない斬新なアイデアでした。ある土地の購入の際には、絶滅に瀕した鳥を救うためだけに、その生息地を購入しました。しかし、年余にわたる尽力の志半ばで、彼は命を落としたのです。
2050年までに、人類の70%は都市に住むことになるそうです。その波とともに、メンタルな問題が増えていることがわかっています。一方、私は以前から気になっていたことがありました。
「なぜ、人は自然に触れると元気になるのか?」
実際、患者さんに自然に触れることをアドバイス差し上げることもあります。ある患者さんは、自分にとって特別な自然の場所へ行くと癒されるとおっしゃったし、仕事のストレスで苦しんだ方は、自然をドライブすることが何よりの治療でした。また、セドナという自然豊かなパワースポットを訪れることで症状の急激な改善がみられた方もいます。
何より、私自身、自然の中を走ることは表現しがたい喜びですし、幸せを感じます。では自然に一体どんな力があるのか?最近の研究はそれを解明しつつあるようです。ランダムにですが、幾つかの記事をたどってみましょう(一部、私のコメントも入っています)。
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Psychology Today 2014
自然への感情的つながりは、他には代え難い恩恵があり、幸せと相関する。自然との接点が減ると、肥満やうつ病が増える。青空学級で学力が上がった。
<自然を走っていると、自然との一体感があり、幸福感が確かに溢れてきますね>
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Greater Good Magazine 2006
How Nature Can Make You Kinder, Happier, and More Creative
森を歩くと、心拍数が下がり、副交感神経優位となる。つまりリラックスした状態。
ストレスを惹起する映画を見た後、自然の景色を見ると、回復が早い。
森を歩くと記憶が上がり、反芻思考(繰り返し過去を翻る思考)が減る。幸せが増す。
注意の疲労が減り、創造性が上がる。4日間のハイキングでパズルを用いた創造性がアップ。
<普段は思いつかないアイデアが確かにひらめきます>
親切で、人に優しくなる。
<そういえば旅行中は、人に挨拶する人多いですね>
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BBC 2016
How Nature is Good for Our Health and Happiness
健康の増進
自尊心の向上
注意欠陥多動性障害の症状が減る。
集中力が上がった。
高血圧が改善した。
不安軽減
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National Geographic 2017
前頭葉の活動が和らぎ、アルファ波が増えた(リラックス)。
殺人が減る。
ニューヨークのセントラルパークをデザインしたFrederick Law Olmstedは当時、周囲のクリニックに患者をパークへ送るようビラを配ったという。
<確かに、あの時代都会の真ん中に自然を配置したのは先見の明でした>
日本の話。森林浴。免疫細胞の向上。日本には「48 Therapy Trails」がある?
退役軍人で、性的なトラウマを受けた人が自然に触れることで睡眠が改善した。<カリフォルニアの美しいモロ湾というところでは、退役軍人で心のトラウマを受けた人々がサーフィンを通して、再び生きる気持ちをみつけるというプログラムが行われています(ネットフリックスにドキュメンタリー映画「Resurface」あり)>
フィンランドで公衆衛生局が月5時間は自然に触れることを推奨。
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TIME 2017
How Just 15 Minutes in Nature Can Make You Happier
Gregory Bratmanによる研究で、自然のある公園を歩いたものは、Subgenual Prefrontal Cortexという前頭葉の活動が低下していた(”Nature Experience Reduces Rumination and Subgenual Prefrontal Cortex Activation”より)
<この部位は、うつ病で活動上昇が知られている(第11回参照)>
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Cool Green Science 2015
Go to Your Happy Place: Understanding Why Nature Makes Us Feel Better
先のGregory Bratmanは、自然の効用はCognitive reappraisal(より好ましい考え方「適応思考」)を促進することとしている。自然に触れることで、出来事を違った形で受け止めれる。
<私自身旅行中には、普段感じていたストレスが取るに足りないことのように感じることは多いです>
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Yes 2017
How Nature Makes Us Healthier and Happier
自然に触れると、自己という感覚が変わる。自他の差が薄らぐ。
私たちが経験的に知っている自然の恩恵。特に脳が、その恩恵をこうむっていることがおわかりいただけるでしょう。
こちら(TED “How Your Brain Decides What is Beautiful”)は、自然ではありませんが、美しいと感じる顔についての進化心理学TEDトークです。「美」を視覚で受け止めると、その情報は後頭葉の視覚野にわたり、前頭葉で認知的処理が行われると同時に、脳の報酬系が刺激されるようです。
つまり、「美」は快楽なのです。買い物や甘いものやギャンブルなどと同じように。そういえば、パブロ・ピカソは言っています。“The purpose of art is washing the dust of daily life off our souls.”(アートの目的は、魂についた日常の埃を洗い落とすことだ)と。
自然に触れることの利点の一つは、「自然の脅威に対峙すること」。第73回で触れたように、囲われた安定のなかで恐怖から守られている私たちは、えてして恐怖に操られています。自然の不安定さのなかで、もう一度恐怖と向き合う経験は日常の膿からの解放をもたらします。私たちが、何故かわからないけど、まみれているストレスの源について知るに至るのです。これが私たちに違った視点を与え、さらには深い癒しをもたらすのではないでしょうか。
人間は、自然を手放し幸せを売り、枠を作ってストレスを買っているかのようです。
自然の脅威は、Douglas Tompkinsにとっては魅力であり、そして彼を死へと追いやりました。ある湖でカヤック中、突然の嵐で6フィートの波に流されます。カヤックに残るか、はたまた氷のような水に飛び込むか(水温は3度ぐらいでした)、恐ろしい選択を迫られます。飛び込むことを選んだ彼は、防水のウェアも着ていなかったようです。数十分の格闘の末、低体温となった身体は病院に搬送された時には息絶えていました。体温は19度まで下がっていたそうです。
この惨事の詳細は、自然の脅威を克明に伝えます(National Geographic “Insiders Recount Efforts to Save North Face Founder”)。死後まもなく、チリ国家は彼に市民権を与えました。現地の人々にTompkinsの意思は届き、ついに感謝と敬意が表明されたのです。
Douglas Tompkinsのミッションは、妻のKrisにより続いています。2017年3月にも、新たな寄付の調印式がチリの大統領とともに行われました(BBC News “North Face Window Tompkins Donates Land for Chile Parks”)。東京都並みの土地が寄付され、さらにその2倍の土地をチリ国家が加えて国立公園にするというものでした。Tompkinsたちは自然の力を本能で知っていました。
そしてそれを守るためにすべてを投じました。Kris Tompkins曰く、「とにかく見に来てごらん。そして好きにならないと、それを支えようとは思えないもの」。Tompkins夫妻の友人であり、写真家のLinde Waidhoferは、写真集を無料で公開しています(Unknown Patagonia)。その自然の美しさを広く知ってもらうためです。