​マインドフルネスと科学

ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」を、ある方から勧められて読みました。 稀有なパワーをもった書です。

ご存知の方も多いかと思いますが、原題「心理学者、強制収容所を体験する」に示されるように、アウシュビッツ収容所を生き抜いた精神科医による記録です。収容所の内情と凄惨さが具体的に描かれ、人間心理の専門家としての考察が加わります。想像を絶する苦難が、人間にどのような心理的影響を与え、さらにはその後どのように希望を見い出しうるかという問いに、この書は示唆をもたらしています。

そのなかには新たな発見が無数です。収容所内では、「カポー」と呼ばれた収容者が監視員に取り入り、他の収容者を酷使した事実や、そのカポーに取り入ることが生き抜くためのコツであることなど、特殊な環境で起こる人間行動の数々に驚かされます。

 

このようなトラウマから生還した人々に「生存者の罪悪感(サバイバーズ・ギルト:生き残ったことに罪悪感を感じ、亡くなった人々に申し訳なく感じる、幸せになることに抵抗感がある)」が見られるというのが教科書的な情報ですが、狡猾に生きなければ生き残れなかったことを知るに、生還者の置かれた立場はそんなに理屈通りのものではないことに気付きます。

 

私が会ったあるアウシュビッツ生還者の女性は、罪悪感は見せずに、ただ幸せであることを熱心に語ってくれたことを思い出します。ロングビーチのカンボジア難民(ポルポトによる大虐殺を逃れた)の方達をみる年配の医師が、サバイバーズ・ギルトがあってあたりまえという紋切り型の診方をしていたことも思い出します。

収容者の心理状態として、感情が麻痺した状態がある時期からみられると観察されています。信じられない暴力を受け、痛みや罵倒にすべてが麻痺してくるのです。自己防衛として。一日の食事は、水のようなスープと少量のパン、栄養失調によるむくみと極寒の中の過酷な労働による凍傷。働けなくなればガス室が待っています。自己と仲間の体験としてそのつらさは切々と書かれています。

一方、フランクルはその極限状態の中でこそ人間の真価が問われ、成長があるという向きのことを言っています。そんな状態で無理であろうとこちらは思いますが。「人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう」(ビスマルク)。

 

壮絶な苦境がその本番の場かもしれない。しかしそれをすべての人に期待するのは酷なような気がしました。と同時に、そのような気概(のみ)が状況を生き抜く術だったのかと理解します。

苦悩の中に意義を見い出す人と、そうすることが困難な人に分かれることがあると書いています。

「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ」と言い、「苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部だろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ」と。体験者の言葉に圧倒的な説得力を感じます。

死の間際に「運命に感謝しています。だって、わたしをこんなひどい目にあわせてくれたんですもの」といった若い女性の逸話が語られています。

感情の麻痺を経て、さらには生きることも含めてすべてを拒絶してしまう段階が来る場合があることが述べられています。いつ終わるともわからない苦痛を前に、目的を失う人々がほとんどでした。著者は生きる上で「目的」の重要さを指摘します。

 

「自分の屍のあとから歩いている」ように感じる中で、なんとか「未来の目的にふたたび目を向け」ることが続けていけるかの運命の分かれで道した。「人は未来を見据えてはじめて、いうなれば永遠の相のもとにのみ存在しうる」。

「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」。ニーチェの言葉を引用してフランクルは言います。「生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ」。「生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。

 

わたしたちはその問いに答えを迫られている…ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない」「この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する」。

 

信じられない苦境を経験した後、なおこう語る彼に頭が下がります。若干厳しい目も感じますが、彼はこれに基づき、「生きることにもうなんにも期待が持てない」という頻繁な収容者の訴えに処しました。「この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとない何かをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ」。彼はあたたかくかつ強い眼差しを向けます。

収容所のような苦境でなくても、目的を失う状況が人生のなかにはあると思います。あるいは生きることに期待が持てない時が。そこに目的があるかないかは大きな分かれ目になりえるかと思います。そして、フランクルも言うように、それは「瞬間ごとに変化する」。その目的(夢、希望といってもいいです)が見えるまでには、時間やいろいろな条件が自分に必要な場合があると思います。

東日本大震災から五年、被災者の方が「頑張っても頑張っても、希望っていうかね、光がね、見えないのよ」とおっしゃるのを読んで、えらそうなことは何もいえませんが、フランクリンのこの書と何かが重なっているように感じました。