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スピリチュアリティとこころ3

今、禅寺で坐禅を組んでいます。

龍安寺石庭は禅文化の結晶のようで有名ですが、その解釈は様々です(*1)。虎の子渡り、黄金律、15石が一度に見れない不完全の美などなど。朝早く誰もいない石庭を眺めるのは格別です。しかし、何時間観ても観たりない。観尽くした感じがしないのです。

 

庭は、奇石の個性、苔と白石の明確な境界が絶妙ですが、至ってシンプル。「一度にすべてを観なくてよいと言ってんのかなー。」などと思いました。また「観ることは、全体、詳細でなく、一瞬、永くでなく、写真に収まるものでなく、観光でなく、多くの人がその空間から感じるもの何かを感じること。すべてを観ることはできないと知り、無心で」とも考えました。

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ある禅寺の和尚さんはそれをこのように説明してくれました。


「石庭は悟りを示している。悟りは「差とり」。つまり、あるなし、白黒など二元論により発生する両者の差を取り払うことを本来意味する。二つが一つの如く、つまり「一如(いちにょ)」が一方、禅の世界の見方である(鈴木大拙は生と死をコインの表裏と表現し、一つのものであって一つのものでないと言っている)。理屈をもって観ようとするのではなく、観るものと同化するように一体化するように感じとり観る。それには「きわめて素直なこころ」が必要だ。」

丁度、修学旅行生が入って庭をみるなり、「綺麗!」と言いました。そして続けて「15個石が同時にみえないんだっけ?」と始まりました。つまり「綺麗!」というのは『きわめて素直なこころ』であり一如であって、その後に続いた理屈は本当に観ることを阻むのです。

『きわめて素直なこころ』は直心(じきしん)とも呼ばれ、空(くう)の状態にあるから素直な反応が出るのだといいます。理屈に「とらわれる」とそれができなくなる。あの場にいて、「綺麗!」と感じるのが一番の見方をしてる時だと実際に思いました。

Woman Meditating

閑話休題。

坐禅の極意は「緩める、ほどく、手放す」。呼吸に意識を向け、脱力する。雑念にとらわれないで、身体や他へも意識をバランスよく向けれるのが「無心」。

禅の精神は様々な些細から大事な教訓をくれます。

最後に禅語を幾つか。

看々臘月じん(かんかんろうげつじん)
命に限りがあることをよくみていなさい。

花枝自短長(かしおのずからたんちょう)
花の枝には短いものも長いものもある。違ってもいいんだ。

不識(ふしき)
知らなくてよい。そんなことどうだっていいじゃないか。

雲収山岳青(くもおさまってさんがくあおし)
あなたはあなたらしくそのままでよい。

騎牛求牛(うしにのってうしをもとむ)
求めるものはすでにあなたの手にある。

自灯明(じとうみょう)
自分自身が灯明だと気付きなさい。

結果自然成(けっかじねんになる)
やれることをやったらあとは待つのみ。

竹篦は竹篦にあらず(しっぺいはしっぺいにあらず)
竹のへらは何物でもない。それは竹のへらの形である。

任運騰騰(にんぬんとうとう)
運に任せていればよし。なるようになります。ケセラセラ。

担雪填井(ゆきになってせいをうずむ)
無駄は必要。

風従花裏過来香(かぜかりよりすぎきたってかんばし)
花々の間を過ぎてきた風が、花そのもののように香っている。影響が人生をつくる。

それにしても、ここは本当に寒い!

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