私の 「こころ」 について
この連載を行っている 「びびなび」 さんから、「執筆者自身について一度お書きになったらどうですか」 「そうすれば読者の方も親近感を持ちやすいのでは?」 と、何度かお話をもちかけていただきました。 最近、丁度書くテーマの準備期間中、あるいは探索中 (あえて題材が 「ない」 とは申し上げません (笑) ) でしたので、「では」 ということで、今回は私自身について触れたいと思います。
こう思った理由は他にもありまして、心療内科医あるいはこころの健康に携わる治療者、あるいはもっと言いますと、医者・診療者がどこまで自身について開示するかという事は、治療者—患者関係を考える上で重要な因子だからです。 これを 「バウンダリー (Boundary) 」 つまり境界線という名でとりあげることが長くされてきました。 治療者は、自分自身の事をたださらけ出せばよいというものではないというのです。 むしろ、どこかでバウンダリーをもってある程度のところで開示をとどめるということで、よりよい治療が行われうるという訳です。
なぜでしょうか?
患者側には必要なことを問い、ひょっとしたら多くのことを開示することが求められうる現場で、なんともフェアではないと患者さん側からは疑問の声があがるかもしれません。 実はこのバウンダリーは両方向性のところがありまして、情報開示と同時に両者の関係が診療というものに適したものであり続ける (よく映画で―なぜかこころの診療に多いようです―治療者と患者に私的な関係が発生する場合が描かれていますが) ために、このバウンダリーは診療者そして患者双方に意識されるべきものであります。 患者側も治療に必要な情報は提示が必要かもしれませんが、必要以上を要求されることはないということもここに付け加えておきます。
情報開示を含めたその関係性に、節度(あるいはルール)が要求されるということですね。 ここでは特に治療者側、そしてその自身の情報開示というバウンダリーについて、なぜそれが重要かを説明します。 このバウンダリーは治療の質をあげることにつながり、患者側に利点が多いことなのです。
例えば、夫婦関係についてご相談にきた方がいるとします。 そうしますと、治療者が結婚をしているのか、年齢は自分より上なのか、下なのか、はたまたセクシュアル・オリエンテーション (同性愛者かなど) は? といったことが患者側に疑問として出てくるかもしれません。 この場合バウンダリーの原則は、治療者自身はそういった情報を開示しないこととされています。 なぜなら、治療のなかに 「バイアス」 (偏り) を持ち込まないためです。 それらの情報を開示することによって、相談にきた患者さんが表出したいことに影響がでるかもしれない、あるいは治療の進展に少なからず影響があるであろうことがわかっているからです。
では、治療者が結婚指輪を外しておく必要があるか、というとそこまでいわれることはありません。 ただ、「あなたは結婚しているのですか?」 と患者に問われた場合、そのことには答えない場合も多いかと思います (実際、結婚指輪に限らず、他の状況証拠などからそれとなくわかることは多いかと思いますが。 あくまで原則です)。 治療者が結婚しているとわかったとして 「あ、この人は私の状況がよりわかるな」 と患者が思う場合もあれば、それとは逆、あるいは予測しない方向へ影響を与えてしまう可能性があるのです。 これが「バイアス」であり、治療への影響であるわけです。
ヘレン・ハントが出演した映画で、 身体的障害などの理由で性行為が難しい方に、性行為という 「セラビー」 を提供するというセラピストの話がありました。 その診療の是非はここでは議論しませんが、その中で彼女は、患者から自分のプライバシーについて聞かれ 「私はプライバシーを大事にする人間だから答えられない」 と、やんわりとしかもはっきりと答えていたのを思い出します (一方、このセラピー自体がバウンダリーに抵触することは大変議論になるところです)。 これは特殊な状況ですが、治療関係に 「情報」 は少なからず影響を与えてしまうということです。 また、治療者のプライバシーを守るという点もあります。
治療者についての情報が治療にどのように影響するかについては、他の例もとりあげてみます。 禁煙が目的でクリニックにきた方がいたとします。 その方は、治療者が喫煙者か、あるいは禁煙経験者か知りたくなるかもしれません。 「その経験がなければ私のつらさがわかる訳がない」 と思われるかもしれません。 治療者が喫煙経験者かを開示するか否かは、この場合治療者によって判断が分かれるかもしれません。
私の場合は、開示します。 喫煙無経験の治療者であっても、この患者の力になることは可能だからです。 がんを持った方を診療するのに 「がんになったことがなければいけない」 ということなら、この世に医療は存在できなくなってしまいますよね。 その人が持つ病気、困難の経験をしたことがなくとも、医療というのは存在してきたのです。
あるいは、経験がないからこそ、より中立的といいますか、客観的な視点が導入できるかもしれない。 患者さんのつらさに共感できることは医療の中で大変大事ですが、医療者は万能では当然足り得ません。 同様の経験者を持った人から何かを求められるのでしたら、禁煙自助グループのような経験者の集まりにいくという方法があります。 それはさておき、私のように開示することは少なからず、治療される側のこころに影響を与えうるという例でした。
話が少しそれましたが、治療者についての情報開示によって治療に偏りが生じうる、ということを言いました。 治療者にとって大事なことは、治療の内容、話の展開を限局することではなく、相談者の状況により即せるように中立的な場を提供する事だと思います。 この中立性 (鏡のような役割と言ってもよいですね) を情報開示は阻む可能性があるということです。 そうは言っても、我々治療者は万能足り得ませんし、人間です。 治療のなかで、一人の治療者と言うものの人間性、洋服の好み、人種などなどが治療に常に影響しています。 それらが患者さんにとって自分にあった治療者かどうかということにも影響します。
治療の進み具合にも影響し得ます。 スムーズに行くときは、だいたいこの治療者—患者関係によい阿吽の呼吸が流れています。 ここまで話すと、このバウンダリーが、こころの診療に特に重要であることがおわかりいただけるかと思います。
原則は原則として、治療者がより人間らしい存在であるため、自身の情報をより開示するという判断もあります。 特に、患者さんが緊張している時、医療者は冷たいという先入観のある時などでしょうか。 我々の一番のゴールは目の前の患者さんの助けになることですから、この判断はある程度流動性はあってよいと私は思っています。
『がんばらない』 の著者で知られる諏訪中央病院名誉院長の鎌田實さんは、地域医療に革新的な取り組みをしている方です。 鎌田さんが東京から諏訪へ医師として入った当初は、現地の方からは冷ややかな反応であったと聞きます。 外から来た人物であること、はたまたそのひげ面のせいか、診察に来る患者は少なかったようです。 しかしこの方、徐々に持ち前の人柄で地域に溶け込んでいきます。
例えば、地域でのお祭りに参加するなど、医師として以前に人間として地元の方々に接したのです。 鎌田さん自身、地域医療の推進のために、自らが溶け込んでいくことが必要だったと回想しています。 このような地域医療の先駆者の経験をもとにすると、医療者といえども自分のことをある程度開示する、あるいはさらけ出すことは必要なのかもしれません。 これは、大変難しいところです。
さらに私の知り合いで、沖縄の離島で僻地医療に携わっている医師がいます。 この島は、人口9,000人程度で、外部からきた人間に対しては、少なからずの抵抗感がある所だそうです。 そこでは独特の言葉が話され、実際、地元のお店に入ると、外部者であることがわかり、そういった視線をいつも感じるそうです。 このように地域医療では特に、地元への浸透というのが治療関係において大事になってくるかもしれません。
私が東日本大震災支援で石巻市に赴いた際、外部 (もっと言うとアメリカ) から来た医師ということで、抵抗感はその地の方々にとってゼロではなかったかと思います。 東北という地域性もこれには当然関係してきます(でも意外とあっけらかんとオープンであった方々も多かったかな)。 このように医療において、受ける側と施す側にど の程度情報開示が必要で、それによる 「知り合い程度」 がどこまで必要かというのは、治療者—被治療者、あるいは何か助けを提供しようとする者とされうる者との関係を考える上で非常に深いものがあるわけです。 意見の分かれるところかもしれませんね。
そういう訳で、「バウンダリー」 という言葉には、原則はありますが、それがどこまで必要なのかは、我々の中でいつも自問している部分であります。 治療の効果が最大限になるという関係を、客観的にそのときの状況で判断する力が求められるのかなと思います。
治療者自身の情報開示については、アメリカそしてメンタルヘルスの領域で、より制限される傾向が強いのかなという印象はもっています。 文化的な違いも反映しているのでしょう。
話は長くなりましたが、自らを語るというのはこのような意味合いも関わってくるということでした。
私自身について少し話しますと、医師として日本とアメリカで半々ぐらいの経歴を持っています。 医師としてよりも人間としてという話をしますと、私自身時々冗談のように 「人間にはヒッピー遺伝子というのがある」 と話すことがあります。
「なぜアメリカに来たのですか?」 という非常に頻度の高い質問を受けることが皆さんも多いかと思いますが 「日本人に生まれたからといって、日本が一番合った場所だとは限らない」 というのが一つの見方で、私自身が日本に合うか合わないかは別として、どこかで違う風土を求めていたというのはあるのかなと思います。 そういう人間傾向はあってよいと思いますし、実際一定の割合の方はこの傾向をお持ちのようで、それを 「ヒッピー遺伝子」 と冗談半分に名付けている次第です。 根を持たない無国籍人的な概念ですね。 あるいは未知を探索したいフロンティア精神かもしれません。 ―古く、ヨーロッパからアメリカへ移住した人のなかには、経済的理由などだけでなく、この「遺伝子」をもっていたからというのもあるのではと睨んでいます (笑)―。
また自分に合った場所は生まれた場所に限らない、というのは、固定概念を変えるパラダイム転換として大事だと思います。 母国を離れアメリカで様々な文化的違いに直面している方々をよく診させていただいていて、そう思います。 一方、私自身、日本に対する親和性はやはり年齢とともに増しているように思います。 当初のアメリカへの傾倒から、日本をもっと 「やさしく」 見れるようになったといったらよいのでしょうか。 愛着と客観視と日本人遺伝子が微妙に私の社会行動、思考に影響を与えながら、年をとっていっているという感じです。
トライアスロンに取り組むのも個人的なことでしょうか。 いわゆる耐久性のスポーツで、ここからこころの問題に対して示唆を得ることは多いです。 それについてはまた触れる機会があるでしょう。
字数が限られてきましたので (笑)、自分自身についてあまりたくさんは語れませんでしたが、例えば、私のアメリカとの関わり方を上記のように知ることで、親近感、共通点を感じる方、逆に違和感を感じる方、様々であろうと思います。 それがバイアスを作り、色々な方向に治療に作用する可能性があるということですね。