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脳の錯覚とポジティブ思考

ポジティブ思考は一見、「こころ」 への万能薬として頻繁に用いられる傾向がある。 ポジティブに考えると気持ちも晴れるし、業績も上がるし、良いことづくしで、ということのようだ。 しかしこの言葉も、科学的根拠から離れて一人歩きしている概念の一つだ。

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[図1]「うつ」の時、脳のどの部分の活動が変わっているか?

ポジティブ思考はなぜよいのか? - 脳科学的にみて -

脳科学的にみた場合、一つの説明は以下のようだ。
ポジティブの反対、ネガティブ思考は 「うつ」 の時に特徴的にみられる。

あまたの研究の末、一つの画期的な成果が1997年に発表された。 人間が 「うつ」 の時、脳のどの部分の活動が変化しているかを見つけたのだ。 図1はその結果を示している。 左上は人間の脳を横から見た図で、向かって左側が前、右が後ろである。 一方、右下は前方から眺めた図である。 難しい専門用語は抜きにして、前の方のやや下、中心線上のあたり、比較的小さなエリアで光っている部分が活動が変化していた場所だ。

このセンセーショナルな発表から、十年の月日を経て、もう一つの重要な研究が発表された。 この研究では逆に、人間がポジティブに考えた時、(例えば、将来仕事でお金儲けができる等) 脳のどの部位に活動が起こるかをみた(図2)。 脳を横から見た図に赤く光った部分、つまり活動がみられた部位が示されている。 特に脳の前の方にご注目いただくと、図1と近似の場所にそれが見られたことがおわかりいただけるだろう。

勿論、うつのときにポジティブに考えればすべてがよくなるということを言っているのではない。 (むしろ、安易な励ましは諌められている) ただ、この二つの結果を一つのコントラストとして非常にシンプルに比較すると、「ポジティブ思考」 の癒し的な効能が示唆される。

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[図2]ポジティブ思考と脳の活動

ポジティブ思考に脳科学からせまる

脳は、すべての臓器の中で酸素の消費量は一番である。 我々は、詳しくはわからないが、これだけ様々なことを我々のためにしてくれているので、非常に精巧で複雑な臓器であると思っている。 しかし 最近の脳科学研究によると、その脳が実は頻繁に錯覚を起こしていることがわかってきている。 言い換えるとすれば、この臓器は意外に 「いい加減である」 ことがわかってきている。 「だまされやすい」 といってもよい。

薬理学者の池谷裕二著の 『単純な脳、複雑な 「私 」』 (朝日出版社) や、心理学者クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ共著の 『錯覚の科学 — あなたの脳が大ウソをつく - 』 (文芸春秋) などが良い例を示してくれている。 前著で、池谷氏は 「事実は、真実とは違う」 と言う。 脳がだまされることで、脳が知覚した 「事実」 と本当の 「真実」 は違うというのだ。

例えば、モナリザの顔を左右反転して見たとしよう (図3)。 反転した右の表情 (B) は、より微笑みが強く感じられる、という人が多い。 これはなぜかと言うと、人間は主に左側の視野から映像情報を受けるからである。 映像を見てそれを理解する右脳は、主に左側の視野からの情報がインプットされる からである。

 

つまり、反転した右の表情 (B) は、向かって左側の顔で口角が上がっていることから、脳は影響を受け、元来の微妙な笑みの表情 (A) よりも、(B) の方がより笑っているように知覚するのだ。 脳が知覚する 「事実」 (ここで言う、モナリザの微笑み) は、こういった操作によって影響を受ける、「あやういもの」 であることがわかる (つまり 「真実」 からずれる可能性がある) 。

Golfing

さてひとまず、脳はだまされやすいということを理解していただいた。 次に、ある興味深い研究を示す。 これは、ゴルファーがパットを打つ時の脳の活動を記録すると、そのパットが入るかどうか予測できた、というものだ (Babiloni C et al.: Golf putt outcomes are predicted by sensorimotor cerebral EEG rhythms. J Physiol 586:131-139, 2008)。 厳密に言うと、パットを打とうとする 『直前』 の脳の活動で予測できたというのだ。 ところで、我々が何か行動を起こす、あるいは 「行動を起こそう」 と考える前に、脳はすでにそのための活動を始めているということがわかっている。 狐につつまれたような話であるが、「脳」 と我々の 「意志」 の時間関係はこのようになっている。

我々が考えるより先に脳は動いている。

この研究によると、行動を起こそうと考える前の 「脳の状態」 が、パットの成否を決めた。 勿論そのゴルファーの練習量とか才能とかにもよるのだが、この場合、同じゴルファーが同じ条件下でパットしたとしても 「脳の状態」 によってその結果が左右されるというのだ (そういえば、全く同じように打ったのに、何で入らなかったのだろうと思ったことはないだろうか? 人はこういう時 「運がなかった」 と解釈しているように思う)。

我々の脳は、電気活動をしている。 この活動には 「ゆらぎ」 というものがあって、常に一定ではないことがわかってきている。 先の 「脳の状態」 というのは、この 「ゆらぎ」 を指し、ゆらいでいる中でどの状態の時にパットをすると成功 (あるいは失敗) するか、というわけだ。 この原理に則っていくと、パットを何センチ、どの方向に外すかも予測可能らしい。 練習場で血眼になっている世のゴルファーは、「これまで何をやってきたのだろう」 「なぜもっと早くそのことを教えてくれなかったのか」 とお怒りになりそうだが… 。 (ところで、練習は必要条件であることは上に示した通り)

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[図3]モナリザの微笑と脳の錯覚

この現象は、ゴルフのパット以外でも様々な行動で見られる。 別の研究では、「グリップ測定」 をした (Aarts H et al.: Preparing and motivating behavior outside of awareness. Science 319:1639, 2008)。 目の前のモニターに 「握れ」 と表示されると被験者にグリップを握ってもらう。 その握力を測定すると、これも 「脳のゆらぎ」 に影響されて変化することがわかった。

ここからが面白い。 「握れ」 と表示される直前に、「がんばれ!」 「いいぞ!」 などとポジティブな言葉をモニターに表示した。 その表示は、サブリミナル効果といって、非常に短時間で、被験者の意識下では気づかれていない (この時、脳が 「だまされている」 )。 しかし、結果、ポジティブな言葉を表示した時の方が、握力は有意に高かった。

私は、いわゆる 「ポジティブ思考」 というのは 「脳のゆらぎ」 を良い方向にもっていくことではないかと思う。 勿論 「グリップ測定」 のポジティブな元気づけは、被験者には無意識になされたものだ。 だが、ゴルフプレーヤーのタイガー・ウッズや、テニスプレーヤーのロジャー・フェデラー、バスケット選手のコビー・ブライアントといった、歴史に残る超一流アスリートを考えてみてほしい。

 

彼らは、苦境に追い込まれ、ここで是非決めてほしいというところで最大の力を発揮する。 他の選手であればプレッシャーに萎縮して、より失敗の率が高まる場面だ。 勿論、上記の選手達は、並外れた能力や努力をしてきた土台があるからだともいえるが、超一流選手にみられる精神力というのは、この 「脳のゆらぎ」 の制御に裏付けされているのではないだろうか。 彼ら特有の 「ポジティブ思考」 は本人達には意識されてないし、長い時間で培われてきたものである。

Couple Running

彼らに共通するメンタルな資質として、「ポジティブ」 「自信家」 「負けず嫌い」 といったものがある。 簡単に言うと、彼らは鍛錬の過程で 「ポジティブ思考」、しかしより深い意味での 「ポジティブ思考」 を身につけ 「脳のゆらぎ」 制御をマスターできるようになった人たちではないか? もっと言うと、我々人間にはその能力があるのではないか? ということである。

ジョギングをしている時、軽快で元気のでる音楽を聴くと、不思議なことにどこからか力が湧いてきて、もう走れないと思っていたのが乗り切れることがある。 これも短期的であるが一種の 「だまし」 である。

先に申し上げたように、脳は 「だまされやすい」 臓器である。 「ポジティブ思考」 というのは、簡単な励ましで 「だまされた」 グリップ測定のように、脳が 「だまされる」 ことで 「脳のゆらぎ」 が制御されることではないか。 きっと長期的に繰り返されることでより深く培われるのではないか (脳には可塑性と呼ばれる繰り返しによって獲得されるシステムがある)。

ゴルフのパターの話に戻すと、「脳のゆらぎ」 は前頭葉 (脳の前の部分) のアルファ波が指標になったようである。 ところで昨今、簡単に頭に被り物をするだけで、このアルファ波を測れるらしい。 また、その量を意識的にコントロールできるようである。 ゴルファーの方、しつこいようだが、やはりゴルフ自体の練習は不可欠だ。 と同時に 「ポジティブ思考」 は上記のように我々のパフォーマンスを改善してくれる可能性があるようだし、さらにその制御をマスターすることで、あなたのスコアに驚くべき効果が表れる時代がくるかもしれない。

今回は 「ポジティブ思考」 の効能を、脳科学的切り口から考えてみた。 脳の錯覚を利用した 「高尚なだまし」 がより科学的に行われる日も近いかもしれない。

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