この二つの映画の共通点は、格差社会への警鐘です。「ターミナーター」がAIへの脅威を描いたように、「ゴジラ」が時代の社会問題を都度反映したように、映画製作者は観客が自分を重ね合わせれることを狙います。

「カッコーの巣の上で」が自由をテーマにした映画なら、この2作品は「多様性」をテーマにしています。

「ジョーカー」のくだりに少し触れますと、情動調節障害と呼ばれるおかしくもないところで笑いが止められない主人公は、虐待の過去と貧困に苦しみ、その虐待をした父は格差の対岸、富裕層にいます。主人公の一見狂気の裏には理由があるわけですが、ふとしたきっかけから暴力と化し、挙句父親を殺し、その幼い子供は次の被虐待者になる。暴力のサイクルが続く悲惨が視聴者に危険な共感を呼びます。

「他の人のことを考えない世の中」になっていると主人公は訴えます。「多様性」に伴う問題の指摘です。対岸を理解せず暴力を用いることが根本解決にならないことを、この映画は伝えたいのではないでしょうか。

ダライ・ラマは「コンパッション」の重要性をよく口にします。中国との自らの経験は、暴力でない「多様性」への一つの対応でした。ジャッジメンタルでなくいましょうとよく言います。ジャッジには、あなたの固定観念が潜むからです。人は自分がそして自分が愛するものが可愛いから戦争がおきます、と言ったのはタモリです。

すると対岸にある別の価値を理解しようとしません。その努力を惜しまず、あちらの辛さを理解しようとすることがコンパッションであり、ジャッジメンタルと反対の行動です。ジョンレノンのイマジンは理想郷であるというのは簡単ですが、コンパッションという対岸の痛みを理解しようとする試みは万人に可能であり、暴力にはない根本解決へいたる方法なのです。